サイバーパンクというジャンルが誕生してからすでに四十年が過ぎ去ったにもかかわらず、人々がいまだにこのテーマに惹かれる理由は、高度に発達したテクノロジー社会における人類の倫理をするどく問う批評性を、同ジャンルが有しているからだ。科学技術の発展はすばらしい。しかし、どうも手放しで喜べないのは、その高度な科学技術を用いる人間たちの倫理性が、もしかすると二次大戦のころからまったく成長していないままかもしれない、と予感してしまうからである。核融合技術の発展は喜ばしいが、その結果として、猿の手に核ミサイルの発射スイッチが握られることは喜ばしくない。それでは現在のわれわれの社会における、核ミサイルの在処はどこか。サイバーパンクはそういうところを突く。
現代においてこのジャンルがおおいに復興している理由は多数挙げられるが、そもそも現代そのものがびっくりするほどサイバーパンク的になった、というのもそのうちのひとつだ。われわれを労働から解放するために開発されたはずの多様な技術は機能せず、シンバシでは残業で疲れた「さらりまん」がポータブル・デバイスでヴァーチャル・アイドルの動画を眺めながら、居酒屋で悲しそうにアサヒをあおっている。四十年ほど前にウィリアム・ギブスンがいみじくも予言した状況に、われわれはそのままスライドしていってしまったようなのだ。
結論を先にすれば、完璧とはとても言えないが、作品に魂が込められていることは確かだ
しかし、だからこそ四十年という歴史をもつサイバーパンクジャンルの蓄積は、私たちに利するところが、勃興当時とくらべても多いと言える。制限付きであるとはいえ、個人の選択の権利は、ある程度のところまでは解放されている(すくなくともそう見える)からだ。そしてこのフィクションめいた現実のなかでわれわれが指針を見失って途方にくれるとき、このジャンルの作品群にあらわれていたものが、新たな指針となってわれわれを導く可能性は大いにある――筆者がDaedalic Entertainmentの『State of Mind』に期待していたのは、もちろん洗練されたアートデザインのこともあるが、おもに上記のような理由からだ。それでは、実際のゲームはどうか。結論を先にすれば、完璧とはとても言えないが、作品に魂が込められていることは確かだ。
2048年、ベルリン――異様な速度で発展を続ける科学技術にたいして、公に警鐘を鳴らしている数少ないジャーナリスト、リチャード・ノーランは、自動車事故に巻き込まれ、病院で目を覚ます。短期的な記憶障害に陥りながらも医師のすすめで帰宅したリチャードは、彼が嫌悪していたはずのロボットが、自宅にいるのを発見する。残されたメモには、彼の妻とひとり息子は、両親のところへ行ったと書いてある。

そもそもこの家族は(リチャードの不倫がきっかけか、それとも心を閉ざした妻が彼を不倫に導いたのかはともかく)あまりうまくいっていないようで、これがきっかけとして一家離散か、とリチャードは諦めかける。しかし彼の最愛の息子がなんの話し合いもなく妻に連れられたことに関して、彼は腹を立て、ふたりの消息を追いはじめる。その過程で彼は、どうやら自分と彼の家族が、単純な自動車事故以上のなにごとかに巻き込まれたことを知りはじめる。
リチャードの人物造形は、意図的に、頑固な偏屈ものとして描写されている。ロボットに暴言を吐き、助けてくれる友人に懐疑の目を向け、善良な人間に厳しく追及したりする。プレイヤーはすぐにこの主人公の不遜な態度に嫌気がさし、もっとすてきでハンサムで、紳士的な主人公だったらばよかったのに、と考えることだろう。夜空に屹立する非人間的なビルとネオンライト、上空を浮遊するドローン、そして街路にあふれかえる貧民やホームレスのイメージにも、しだいに胸焼けしてくるにちがいない。
だからゲームは新しい主人公と街を用意してくれる。シーンが切り替わり、しわひとつないシャツにネクタイをしめた、じつに紳士的な父親、アダム・ニューマンが、いきなり登場する。アダムはリチャードとおなじように妻と息子をもつが、家族関係は良好そのもの。彼はこの世のものとは思えないような清廉な都市、「シティ5」で、一流ニュースメディアのジャーナリストとして働いている。

この対比はたんなる映像表現の手法にとどまらない。ゲームをプレイするうちに、だんだんと、2048年のベルリンとシティ5、そしてアダムとリチャードの奇妙な関連、偶然ではすまされない一致が明らかになってくる。意匠は大きく異なるものの、街の構造が酷似している。リチャードとアダムが働いているニュースメディアのオフィスの構造、ふたりがそれぞれに住んでいるタワーマンションの前の広場、そして彼らの家の間取りまで、ほとんど一致している。
筆者が評価するのはつぎのシーンである。アダムが通勤のためにタワーマンションの前の広場を通り過ぎる。ある場所にカフェのテラス席がある。アダムは近くにいた女性に問いかける。「ここにはキオスクがありませんでしたか?」女性は、そんなものはなかった、と答える。いや、絶対にあったはずだ、とアダムは考える。それで会話が終わる。もちろんシティ5にはキオスクはない。しかしながら、もしもシティ5とベルリンの地図を重ね合わせたならば――アダムが言及したキオスクの位置は、ベルリンにおいては、存在している。


あまりに意欲的にさまざまなテーマに挑もうとしすぎていて、いったいどの話が主だったものなのかが、わからなくなってくる
ここから物語はアダムとリチャードの、そしてベルリンとシティ5の関係性を切り口に、さまざまなサイバーパンク的テーマへと分派しはじめる。腐敗した大企業による人類のVR空間へのアップロード、サイバードラッグあるいはサイバーセックス、ロボットによる自由意志の獲得、映画『マトリックス』、仮想世界にアップロードされた子供の脳をもとにする超越的AIなどなどだ。
語りのうえでの問題が起こりはじめるのもここからである。ありていに言えば、本作はあまりに意欲的にさまざまなテーマに挑もうとしすぎていて、いったいどの話が主だったものなのかが、わからなくなってくるのだ。いずれのテーマも魅力的かつサイバーパンクの伝統に属するものではあるのだが、リチャードとして失踪した妻と子を追っていたつもりが、いつのまにか彼の家庭用ロボットを操作しはじめ、彼がどのようにして自由意志を手に入れたかの話に入ってしまったりする。そのために個々のシーンのつながりがかなり冗長なものとなり、それぞれのキャラクターの意思や動機がひとつづきのものとしてうまく把握できなくなってしまう。
それに加えて、本作はなんといっても、ゲームであることを武器にできていないように感じた。ゲームプレイ時間のほぼ半分を占めるカットシーンのせいで、いざコントローラーを握って謎解きをするころには、操作のやりかたも忘れてしまいそうだ。謎解き自体もとくに興味深いものではなく、ただ繊細に構築された美しいマップをすみずみまで鑑賞して楽しむためのきっかけに留まっている。それでまた冗長になってしまう。
ゲームであることを武器にできていないように感じた
こういった逸脱は、たとえば『Va-11 Hall-A』や『2064: Read Only Memories』などにおいては、世界観の増幅装置としてうまく機能していた。というのもこれらの作品の物語は、テキストベースで語られていたからだ。すれ違う人々のちょっとした会話文のなかでロボットの自由意志が語られるのならば数秒で済むし、プレイヤーは好きなところで手を止めてそのテーマについて考察することもできた。しかし本作はじつに丁寧な映像表現を用いて、十数分間たっぷりとそういった脇道に逸れてくれるのだ。その結果、プレイ時間は八時間にまで膨れ上がっている。

どんな映画マニアも唸らせる美的達成
しかしながら本作の魅力はまた、さまざまなテーマに果敢に挑む映像表現や美的特徴そのものでもある。というよりも、これがあったからこそ筆者はプレイを楽しんで続けられた、とまで言える。退廃しきった2048年のベルリンの薄暗さとネオンから、疑わしいほどしみひとつない奇妙な都市シティ5へのトランジションは、どんな映画マニアも唸らせる美的達成だ。
とくにプレイヤーがカメラを移動しないカットシーンの、名匠の手によって固定されたり動いたりするカットの、なんと美しいことだろう。リチャードの不倫相手であるリディアが売春婦としてサイバーセックスにのぞむシーンの脅迫的な演出などは、もちろん本筋から逸れてはいるものの、それ自体がおそろしいまでの芸術的達成として完成してしまっている。断言できるが、アートディレクターは古今東西の映画をすべて見たにちがいない。この表現を見るためだけにも、本作を手に入れる価値は充分にある。
そして、まとまりがないという欠点があるとはいえ、主人公や登場人物たちが、理解できないほど巨大にふくれあがった社会のなかでの苦闘を経て、それぞれのアイデンティティを(それもサイバネティクス的かつ奇妙なかたちで)見いだすという結論も、しっかりと用意されている。最後のシーンで描かれるリチャードの家族は、外面的には序盤とほとんどおなじように見えるが、さまざまなテーマから回収された出来事の結果、以前とはまったく違う存在であることが、プレイヤーにだけ感得されるような仕組みになっている――ただ、それもプレイヤーの記憶に序盤がしっかり残っていればの話ではあるが。
日本語訳の品質の致命的な低さ
もうひとつ付け加えておかねばならないのは、日本語訳の品質の致命的な低さである。本稿執筆のためのプレイを行った2018年8月17日のビルドでは、単純な言葉の意味の取り違え、会話におけるふたりの人間の口調のとつぜんの混同、西洋の原語では自然だがそのまま日本語に移し替えると不自然になる構文などが続く。そもそも主人公たちはあまり人間として信頼できない人物ではあるのだが、それが不条理に満ちた社会構造に抑圧されたストレスからくる不可避なものとして、英語版では描かれている。そこにブルースや混乱や葛藤があったのだが、そのためのニュアンスが日本語訳ではすっぽりと抜け落ちてしまっているため、単にいけすかない人間たちが巨大な状況に流されて右往左往してるだけに見えてしまう。残念だが、この品質では、日本語版のゲームの評点から1点を減算せざるを得ない。
Some of the contents are from the internet, if these contents infringe on your copyrights, please contact me. All contents doesn't represent my points.
多岐にわたるテーマ
すぐれたアートデザインと映画的表現
「ゲーム」であることを武器にできていない
芯を欠いた物語
日本語訳の品質